クライミングないしボルダリングを関係のない人に説明するのはむつかしい。
何故ならまずクライミングとボルダリングの違い、つまりジャンルについての説明がどうしても必要になってくるからである。
そしてクライミングというものには、あまりに多くのジャンルが存在しているという事実が、事を尚更厄介なものにしている。その種々雑多なこと、複雑多岐に渡り、魑魅魍魎が跋扈するが如くなのである。例えば以下にジャンルの用語だけでも列挙してみる。
フリークライミング、ロッククライミング、スポーツクライミング、ルートクライミン
グ、ボルダリング、リードクライミング、トップロープクライミング、トラッドクライミ
ング、スポートルート、スピードクライミング、シングルピッチ、マルチピッチ、フリー
ソロ、
エイドクライミング、アルパインクライミング、アイスクライミング、沢登り、ハイキン
グ、トレッキング、マウンテニアリング…etc.


(画像引用元※1)
多くない?
というのが一般の所感ではないだろうか。いや、そうなのよ、多すぎるの、と僕も思う。
それぞれの区別がきちんとついたのは多分昨日、というか正直に告白すればこの文章を書く為に調べたから、である。お恥ずかしい。
ちなみに参考にしたのは、クライミング界のウィキペディアこと植田幹也氏のミキペディア。(リンクを貼っておくのでぜひ参考にされたい※1)
細かいジャンル分けに関しては、氏が懇切丁寧に説明してくれているのでそちらに譲るとして、ここで提起したいのは、どーしてこんなにたくさんのジャンルが発生してしまったんだろうかという疑問である。毛虫だとかカメムシの大量発生のときと同じ、種類なんぞは知ったこっちゃなく、なんでこんなに出てきちゃったんだろう、という怒りと言い換えてもいい。なんなら、クライミングが今ひとつメジャースポーツになれないのはこのジャンル分けのせいじゃないかという気もする。
植田氏の説明をかなりざっくりと要約すると、ジャンル分けは、どう登るかというスタイルの違いが大事なポイントになるということだ。具体的に言えば、登る対象とそれによる使う道具の違い、ルートの開拓方法といったところだろうか。
ここでなるほど、と思うのは、スタイルがジャンルを生み出すという点だ。ジャンルという言葉を聞いても、それまでは、別の街、別の学校や会社、はたまた別の乗り物といった具合に、AとBの差異を表す言葉だろう、という漠然とした認識であった。しかし確かに油絵と水彩画は同じ絵画だがその制作方法の違い、即ちスタイルの違いを表した結果にすぎないし、職種というジャンルも仕事という行為はどれも同じだが、そのやり方、つまりスタイルを表している言葉だ。
スタイルがジャンルを決定づけるのであり、逆はない。スタイルは常に先立ち、ジャンルは遅れてやってくるものなのである。
ではスタイルとは?一言で言ったものの、スタイルとは一体何だろうか?
「スタイル」という言葉の定義は、『新明解国語辞典 第8版』によると、
スタイル [style] ①姿。格好。「−がいい」②文章・服装・建築などの形式・様式を指す。「ニュ
ー−・アメリカン−」③その人なりの、あることのやり方「演奏(サッカー・生活)の−」
とある。(※2)
これぞ、である。
「その人なりの、あることのやり方」。
まさにクライミングにおいて大事なのはこの点なのだ。
最初に「その人なりのやり方」があった、という事実。
クライミングでも絵画でもなんでも、十人いれば十通りのやり方があった、という至極
当然の事実。
山があり、岩がある。そして、誰かが自分なりの方法で登り、また別の誰かが登る。
高度に発達してしまった現代の超・情報社会では俄かに信じがたいが、おそらく事前に得る予備知識や模倣できるロールモデルといった情報が圧倒的に少なく(それがわずか20年前くらいまで普通だったというのもまた別の意味で震撼すべきことだが)、なんとなく風の噂で、まことしやかに語られる嘘みたいな話を頼りに、各々が各々なりの解釈で登っていたのだ。そして、ジャンルとは、後から似ているもの同士を一括りにして確立させたものにすぎない。
であれば、我々クライマーのやるべき事はただひとつ。
ジャンルに従うのではなく、己のスタイルに従うのみである。
なぜならスタイルが常に先立つからであり、なぜならジャンルは秩序を成り立たせる規範でも、己の欲望を縛りつける戒律でもないからだ。
確かにボルダリングを一つとってもそこにルールを設けている事はある。ジムの課題であれば、スタートホールドはココで、ゴールホールドは両手で安定した体勢を作るといった具合に。しかしながら、それは規範というよりはあくまでもこの場所で遊ぶためのもの、いわばガイドなのだ。結局極論ではあるが、スタートから登らなくても、ゴールマッチが3秒に足りずとも、どこぞの何某かに害を及ぼすわけでもないのだ。自然の岩なら尚更。
そうはいっても、ある人は言うかもしれない。
スタートが初登時と違いますよね?シットダウンスタートしていませんよね?その抜けだと本来のラインと違ってきますよね?本来ならそこにはヒールしないんですよ、…云々と。
ひょっとしたら、そうなのかもしれない。それはたとえば池田功氏のデッドエンドや忍者返しではないのかもしれない。でも、と思う。それは同じ岩なのだ、と。もしからしたら「池田功」のデットエンドや忍者返しではないのかもしれないが、同じ岩をあなたが、わたしが、好きなように思うままに持てる知力全てを引き出して登ったのだ。あなたという人間の全力が出たという意味において、それは誰にどう言われようと誇るべきことであり、何人たりとも貶めることが出来ないあなた自身の表現に他ならない。
何よりも先ずは「自分のクライミング」が在り、その「表れ」が大事なのだ。
最後に、以前ジムであったエピソードをひとつ。
数年前の平日の昼下がり。常連のY崎氏と、その娘さんで小学校帰りのIちゃんが登っていた。その日は他にお客さんもおらずガランとして静かだった。確かまだ夏の匂いが残る秋日和だったと思う。先輩スタッフのMさんが少し暇を持て余しているIちゃんに課題を作る。
高学年になって少し背の伸びたIちゃんは調子が良さそうで、次々に完登していく。
気持ちのよい登りっぷりに、父であるY崎氏も娘の成長を感じてか、なんだか感慨深げだ。僕も少し離れたところから眺めることにする。
また一つMさんが課題を紹介する。今度のは今までより少し難しそうだ。ホールドが明らかに1グレード悪いし、オブザベしてもムーブがいまひとつ見えてこない。
Iちゃんもこれはと思ったのだろうか、Mさんに何回も確認しながら入念にホールドを覚える。
がんばれ。ちょっと悪そうだけど、今の実力なら一撃も狙えるぞ、と僕は思った。他の二人もそうだったと思う。
やがて、Iちゃんがきりっとした表情で壁に向かう。うん、集中している。
しかし、ガンバ!と皆が思ったその瞬間、Iちゃんはおもむろにゴール手前の核心とおぼしき箇所に向かい、バラし始めたのである。
これには大人たちも拍子抜けをしてしまい、Y崎氏とMさんは「ファーストトライはスタ
ートから…」と言いかけた。
するとその刹那、ぴしゃりとIちゃんが言った。
「別によくない?」
その竹を割ったような潔い口ぶりに、われわれ古い人間たちは雷に打たれたようにひれ伏
し、口ぐちに「すみませんでした」と謝ったのであった。
以来、僕はこのときの電撃的な衝撃が忘れられず、後生大事にこの言葉を抱えてクライミング人生を歩んでいる、と言っても過言ではない。
でも、たかが岩登りなのだ。どう転んだって、岩っころ一つ登ったところで、革命が起きるわけでも、未曾有の大災害や終末論的救済が到来するわけでもないのだ。
だったら、好きに登ればいい。
登らなくたっていい。
どう食べようが、どう寝ようが、どこに行こうが構やしない。
岩登り本来の自由奔放さを忘れ、社会のしがらみにとらわれては、とかく「こうじゃなきゃいけないんだよな」と思いがちな自分はことあるごとに、このIちゃんの言葉を自分に向けて呟いている。
別によくない?と。
心の底から本当にその通りだと思う。
※1:『Mickipedia』、「クライミングの言葉の定義1~フリークライミングのジャンル分け
〜」、2019年 (https://micki-pedia.com/classify-freeclimbing.html)
※2:『新明解国語辞典 第八版』、三省堂、2020年
words ヨシダ
都内のとある小さなジムに勤務
柔軟性を生かしたキョンでフロアを沸かせたい
ビールとNBA(セルツ推し)と本が好き

