今我がジムにある現象が巻き起こっている。
ファイル課題などをセッションしている際に、皆が皆、「ドラゴン」というワードを口にするのである。それも特定の層に限ったことではなく、老いも若きも男女も問わず、だ。
よくよく探ってみると、どうやらこの現象の背景には常連のKZ氏の存在が大きいようだ。
このKZ氏、ジムに来た当初から熱心にクライミングに取り組んでいたのだが(家族全員、会員である!)、ここ1、2年何かを掴んだようにメキメキと頭角を現し、古参の常連が敗退する課題を完登するまでになり、その昇り竜の如き様に、誰からともなくKZ氏を「ドラゴン」と呼ぶようになったという。
また、氏はピンチホールドに滅法強く、その驚異的な保持を「ドラゴンピンチ」と呼ぶこともあるらしい。
それを聞いて、これはと思い当たることがあった。
以前読んだ『言語学バーリ・トゥード』の中のコラム、「ドラゴンという現象」のことである(※1)。

著者の川添愛氏はその中で、なぜプロレスラー藤波辰爾の一挙手一投足全てにドラゴンという冠がつくのか、という今回の件と実に密接なつながりがある問題を提起している。
以下、抜粋である。
[…]藤波選手のニックネームは「ドラゴン」で、彼の技の名前の多くには「ドラゴン」が付く。有名なところでは、背後から羽交い締めにした相手を後方に投げて固めるドラゴンスープレックス、相手のミドルキックを受け止め、蹴り足を軸にして回転するドラゴンスクリュー[…]藤波選手の技には、なんだか当たり前のように「ドラゴン」が付くのだ。
[…]さらに異常なのは、藤波さんの場合、プロレス技以外の動きにも「ドラゴン」が付いているということだ。パートナーからタッチを受けた藤波さんがなぜか一度コーナーポストに上がり、しかも「何もしないで降りる」という隙だらけの謎ムーブには「ドラゴンリングイン」という名前が付いているし、ドロップキックをスカされたときに一人で受け身を取る様を「ドラゴン一人受け身」と呼ぶ[…]
また、「ドラゴン」の名が付くのは試合中の藤波さんの動きだけに留まらない。二〇〇一年の東京ドーム大会で、長州力と橋本真也の遺恨試合中、実況席にいた藤波さんがなぜか突然リングに上がって試合を止めるという出来事があり、「ドラゴン・ストップ」と呼ばれている(pp.155-158)

藤波辰爾のドラゴンスープレックス。凄まじい背筋を活かしたドラゴンの名にふさわしいド派手な技である。
川添氏はこのドラゴンインフレ現象の理由を、藤波選手の名前からの連想しやすさ、引き締まった体格、そして天然で優しい性格にあると述べており、それは言い換えれば、藤波辰爾本人の持つ、ある種のカリスマが何事にもドラゴンを冠してしまう理由だということだろう。
しかしながら、それは「藤波辰爾」についての言及だけに留まるものであり、「ドラゴン」という言葉そのものが持つ意味論的分析、すなわち言葉自体が受け手に与えるイメージについての議論が充分になされていない印象もうける。
言うまでもなくドラゴンは架空の生物であるが、にもかかわらず、古今東西の至るところでその存在が、あるときは神話として語られ、またあるときは絵画や彫刻の形をとって伝承されている。それはおそらくドラゴンが単なる空想の産物というより、人知を超えた現象(多くは自然災害)、たとえば雷や台風、豪雨に洪水、はたまた地震や噴火などのアレゴリーだからではないだろうか。それゆえときに憎まれ、ときに崇められ、およそ人類の力の遠く及ばない存在、いわば畏怖の対象として、ドラゴンというイメージは人々の心に広まっていったのではないか。(これはあるいはイメージというよりミームの概念に近いとも言える※2)
だからこそ、「ドラゴン」という言葉は、何か我々の理解の範疇の先にあるもの、というイメージを自然と人に想起させる。「人外」だとか「異常」といった言葉のイメージにも近いかもしれない。あるいは、最上級の強調表現という観点から見れば、スラング的に使われる「鬼」という言葉も類義語と言えるだろうか。(実際、「右手鬼ピンチしてロックする」とか言いますよね)
しかし、ともすればネガティブな意味を持つこれらの言葉と「ドラゴン」という言葉が決定的に違うのは、以下の一点に他ならない。
ドラゴンは断然かっこいい。
そう、ドラゴンはかっこいいのである。
常軌を逸していて、尚且つ、かっこいい。
ドラゴンという言葉の持つイメージの説明は、まさにこの「かっこよさ」という一点に尽きるといっても過言ではないだろう。
ここにきて「それってあなたの感想ですよね」的な理由かい、と憤慨される方もいらっしゃるかもしれない。だが、少し想像するだけでいい。たとえば大胆かつ繊細さが要求されるハードなダブルダイノが核心の課題があったとして、一体どれが課題名として相応しいだろうか。
A. 「スーパーダイノ」
B. 「鬼ダイノ」
C. 「ドラゴンダイノ」
もはや言うまでもないだろう。この課題は「ドラゴンダイノ」でしかあり得ないし、やはり常軌を逸していて、尚且つ人を魅了する力が「ドラゴン」という言葉には備わっている証左でもある。
そしてここにおいてこそ、「ドラゴン」という言葉はクライミングと激しく交差するのである。それは即ち、「ドラゴン」同様クライミングというものが、いちスポーツという枠にとどまらない、常軌を逸した、強くて、美しいものだという宣言でもある。
だから、「ドラゴン」と言ってみればいい。もしあなたがクライマーで、しかし調子を崩して落ち込んでいたり、とある課題に沼って悪戦苦闘していたり、セッション相手に劣等感を感じて自信喪失していたり、全く持てないホールドに打ちのめされていたりするのであれば、「ドラゴン」とだけ言えばいい。
つまり、疲れてレストであれば、それはドラゴンレストに、登れるのであれば、それはドラゴントライに昇華される。ある日のクロスはドラゴンクロスになり、そこからの返しで落ちてしまったのならばそれは即ちドラゴンフォールである。外岩でのシビアなヒールはドラゴンヒールに他ならず、気分転換に赴く別ジムへの遠征は、とりもなおさずドラゴン気晴らしとなる。眼前に登る者がいれば、それはドラゴンクライムをしている者に違いなく、強きも弱きも関係なく、我々はドラゴンガンバと応援するのみである。
クライマーの数だけ、ドラゴンな生き様が存在し、壁の前に立つ者全てが内なるドラゴンへの道を歩んでいる。そして今日も常軌を逸した、強くて美しいものを追い求めて、ジムに人がやってくる。その様を見ているのも、ジムスタッフをやっていて感じる楽しみの一つなのである。
ドラゴンな皆さまのご来店をドラゴン待ちしつつ、この辺りで私のドラゴンライティングを終えたいと思う。
また次回。
<※1−川添愛、『言語学バーリ・トゥード Round 1 AIは「絶対押すなよ」を理解できるか』、東京大学出版会、2021年。プロレスやお笑いの事象を言語学的に分析してくれる良書。抱腹絶倒ですぐ読めてしまう。
※2−ミームとは人の脳から脳へと伝播していくイメージや概念を、遺伝子的なモデルを使って説明したものである。というのが個人的な理解。例えば人類史上最も伝播しているミームは「神」である。夏目漱石の『我輩は猫である』に出てくる、「誰も口にせぬ者はないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが、誰も遇った者がない。大和魂はそれ天狗の類か」という有名な一節はまさにミームについて的確に述べた名文であると言えよう。
words ヨシダ
都内のとある小さなジムに勤務
柔軟性を生かしたキョンでフロアを沸かせたい
ビールとNBA(セルツ推し)と本が好き

