サッカーのW杯が開幕して早2週間。
この原稿を書いている時点では、日本はスウェーデンに引き分け、無事グループリーグ突破をちょうど決めたところである。
こうも日本の調子が良いと世間はサッカー一色で、ジムには閑古鳥が鳴いて…と思いきや、そこは変わり者?が多いクライマー。
ありがたいことに、お客さん達は普段と変わらない足並みで来てくれている。
興味すらない方も多く、
「これってLIVE?」
とか、
「来年はどこで開催されるんですか?」
など、
結構あさっての方向のコメントをよく聞く。
(W杯という言葉を聞いてクライミングのそれ同様、各地で転戦していくタイプのものをイメージする人も多いようだ)
ちなみに僕はといえば、もう一つ別の角度でW杯を楽しんでいる。
スポーツくじ、つまりギャンブルである。
1口200円から買えて、試合のスコアを予想する。勝敗だけでなくスコアも当てなくてはならない分、比較的オッズも良い気がする。
なにより、普段だったら気にも留めないような国と国の試合も、ワクワクしてしまうのが、人のあさましき性というか…。
あ、断っておくが、僕には博才はてんでないし、あまり縁もない。
本格的な博打経験と呼べるものは唯一、マカオのカジノで「大小」という半丁ゲームをやったことがあるくらい。(沢木耕太郎の『深夜特急』に出てくるアレです)
それも、「俺は王になって帰ってくるよ」と大口を叩いてはみたものの、勝つどころか、大張りして盛大に散ることすらなく、少々のマイナスで終わるという詰まらない結末であった。
ああ、なんと小市民なことか…。

『深夜特急』にも出てきた老舗、カジノ・リスボア。
ただそこで味わったカジノの空気感は忘れがたいものだった。
真面目そうなサラリーマンが、水商売風情の女性が、晩御飯の腹ごなしに来た初老の夫婦が、少しやくざな風体をしたおやじが、真剣に卓上の賭け盤を見つめ、賽の振られる音に耳をすましている。
ブザーが鳴り、的中箇所のランプが灯る。
一瞬の静寂、
そして呻きとも叫びとも似つかぬ吐息のような声が、ほうぼうから漏れ出る。
そこには間違いなく、ぎゅっと凝縮された人生の悲喜交々があった。
そこでは老いも若きも男も女もなく、あくまでも公平に、対等に、運というボールを皆が追っていた。
もちろんゲームだから、サイコロの出目を読む理論のようなものはあるのかもしれない。
あるいは、リスクヘッジ的な、賭け方の基本戦術はあるのだろうと思う。
実際僕も直近のサイコロの目を参考にし、例えば「大」が5回連続で出ていれば、次は「小」、などと考えてはいた。(※サイコロの目の合計が10以上なら「大」、それ以下なら「小」である)
しかしいくらスジを読んだところで、冷静に考えれば、次に出る目の確率は常に一定であるから、結局は運なのだ。
そして、盤にコインを押し出す最後の意思決定は、絶対次はコレが来る、という自分の組み立てた非論理的なロジックへの盲信によって直感的にするしかないのである。
目が判るその直前まで、卓を囲む全ての人が、自分は偶然の中に必然を見出した、と確信している。
そして目が判り、どう見てもただの「偶然」としか言えなかった何かが、向こうのメガネの青年の、隣のドレスの女性の、あるいは自分の人生を弄んでは、なんの意図も目的もなく、何処かの「必然」へと運び去っていく。
「努力した結果」だとか、「才能によって導かれる」といった因果論的な言説さえ、そこでは無力と化してしまう。
それは言い換えるなら、博打が究極のフェアネスを具現している、ということなのかもしれない。
だからこそ、人は抗いがたく博打に惹きつけられてしまうのだろう。
そして、その魅力はスポーツにも、ひいてはクライミングにもある、と思う。
スポーツも、博打も、結局は結果論である。
シュートが決まれば英雄、決まれなければ、なぜパスをしなかったと犯罪者のごとく詰め寄られる。
核心の一手をランジで止めれば生涯最高のクライミングになり、止められず怪我をしたら無謀だと呆れられる。
どちらも、決められる「絶対」を、止められる「絶対」を自分の中に確信している。
どう考えたって、今回こそは、と僕らは感じている。
明確な根拠など何もないのに。
およそあらゆるスポーツが孕んでいる二律背反がここにある。
誰しもが「絶対」の根拠を追い求めて死に物狂いで努力するが、究極的にはその「絶対」を裏付ける根拠は存在しない、という現実。
かつて、僕はクライミングを、もっと科学的に捉えていた。
問題があれば、分析し、仮説を立てて実験し、検証して…、というプロセスを繰り返せば、出来るだけ物事を正確に把握できる。
クライミングだって同じはずだ、より丁寧にムーブを検証し、一手一手の解像度を上げていけばいい、と。
ひとつのムーブに、ひとつのフォールに根拠を見いだすことが大事なんだと信じていた。
だから、入念なバラしをしてムーブの精度を上げようとしないクライマーには少し苛立つことがあった。
なんで科学的な検証=練習をしないんだ、と。
でも、と今は思う。
そんなことはないのかもしれない。
ジムだったらまだしも、外岩、ましてや大会の課題などは一期一会、今ここ、それっきりである。
くだらない実験だとか検証だとかをしているクソみたいな猶予はないのだ。
今日の調子なら絶対止められる、このフリクションなら必ず保持できる。
この間違った根拠からくる「絶対」がないクライミングに一体どれほどの価値があるというのだろう。
100回中99回は落ちていたな、と思われたっていいのだ。
その1回を当てにいくからこそ、ある種のクライマーは博打的に狂っていて、感動的なのだ。
もちろん、3秒後が分かればいいのに、と思う。
サイコロの目が分かっていれば、
シュートが飛んでくるコースが分かっていれば、
次の課題とその正解ムーブが分かっていれば。
でも分かるとしたら、世の中の物事はなんと味気なく、つまらないことだろう。
人々は鉛のように無感動で、旅をしたり、新しい本を開いたりすることもなく、いつもと違う銘柄のビールを飲んでがっかりしたり、恋をしたりすることもないのだ。
交通事故はきっと一件も起こらないだろうけど、そんな世界はちょっと耐えられそうにないな、と思う。
また次回。
words ヨシダ
都内のとある小さなジムに勤務
柔軟性を生かしたキョンでフロアを沸かせたい
ビールとNBA(セルツ推し)と本が好き

