【みうらじゅん的思考のススメ】
Words: ヨシダ

 

このあいだ「安住紳一郎の日曜天国」を聴いていたら、ゲストのみうらじゅんが自分は「誤解を待っているだけ」と言っていた。自分のしょうもない遊びをオリンピックくらいの頻度で誰かが勘違いしてくれる、そしたらこっちのもん、ということらしい。

 

ちなみに、安住氏の「日天」はぜひ一度聴いてみてほしい。大泉洋の本体は「水曜どうでしょう」にあるのと同じくらい、安住紳一郎の本体も「日天」にあると言っても過言ではないです。

 

それはさておき。

 

こういうことは、ジムで課題を作っているとよくある。たとえば、

 

会員Aさん:「悪いと思っても欲しいところに足があるのがにくいよねー」
僕:「…」(そりゃ自分が自然と足出したところをフットにしたから)

Bさん:「下足からだと全然できなくて、手にヒーしたら良かったんですね!」
僕:「クライミングはムーブですから(マジか…そこにヒールとか天才かよ)」

Cさん:「ぱっと見、シンプルなムーブなのに持ち感が繊細で、岩っぽい!面白い!」
僕:「そういうテイストを出そうとは常々思ってます(すみません、たまたまです)」

 

万事がこんな感じである。

 

ただ僕が思うのは、課題は作った人だけのものでは決してないということ。
別の言い方をすれば、課題は作っただけではまだ課題ではなく、誰かに登られて初めて課題として成立するのだ、という点を決して忘れてはならないのだ、と。(すみません言い訳です)

 

だから、想定ムーブが一顧だにされずとも、核心パートがビルの解体のごとく無惨に破壊されようとも、ケチをつけるのはお門違いということになる。むしろ、みうら氏をならって誤解の赴くまま気のまま、そうやって課題が本来の姿をかたどっていく様を眺めていくことにこそ、ジムスタッフの醍醐味がある。

 

実際、作り込んだ課題は意外と人気が出ず、なんとなしにその場の思いつきで出来た課題の方が熱心に打ち込んでくれたりすることがある。そしてその苦難の果ての完登は、見るもの全員の胸を熱く打ち、セッターとしても最も嬉しい瞬間となる。

 

考えてみれば、実際の社会での共通認識だとか相互理解というのも似たようなもんだ、とも思う。「理解とは誤解の総体である」と村上春樹が言っていたが、ささいな行き違い、ちょっとした認識の相違が、不思議なスパイスとなって、創作者の意図を超えた、奇想天外の楽しいものになっていたりする。意外なところでバズる、とでも言うか。

 

ま、逆の方向に働くととっても恐ろしいことになるというのは言うまでもないので、適度な「あそび」を持たせるのが何事も肝心ということでしょうか。

 

そんなことを意識しつつ壁を眺める日々の中から、今まで見てきた種々雑多な人間模様の一部をここで伝えられたらと思う。
今後ともどうぞよろしくお願いします。

 

 

words  ヨシダ

都内のとある小さなジムに勤務
柔軟性を生かしたキョンでフロアを沸かせたい
ビールとNBA(セルツ推し)と本が好き